博雅の災難

 

 

■一■


一度、博雅と晴明の「仲」が知れそうになったことがあった。


その日宿直番だった博雅は、他の都人達と共に宿直部屋に詰めていた。
縦真二つに割ったような半月が、儚い色でこちらを見ている。

梅雨の明けた、澄んだ空から注ぐ月明かりを受けて、博雅は時折ため息をつきながら
濃藍の夜空に浮かぶ月を眺めていた。

「この月を、晴明も見ているに違いない…」

小さく口の中でつぶやいた。
笑みを浮かべ、月と晴明をその胸に宿す。

博雅以外の宿直番達は、何人かかたまって噂話に花を咲かせている。
この時の博雅のつぶやきなど、誰一人聞いている者はいない。

さてこのような晩にすることと言えば、宿直番同士の噂話や、他愛のない恥の方の暴露話の披露だったりする。
宿直番とは本来、内裏に不穏が無いかを確認する、今で言う警備員のような立場である。

しかしそこは平安。
平安だからこそ、この時代を「平安」と呼ぶに至っている。

ならばそんな時。

尖らない神経を持つ男達がすること。
―睦み合い、秘め事のうわさ話。

丸まった角の先をつき合わせて男達が興じるもの。
―ちょっとしたやっかみの混じった艶事の雑談。

平安と呼ばれた時代より前の時間を生きた人間も、
平安よりずっと後に続いているだろう時代を生きる人間も。
たぶん、この手の話をしないで死んでいく人間は居ないはずである。

「四条の中納言殿が通っていた先の姫に子が出来たそうだ」
だの、
「この間参内した時に何某どのの頬についていた引っ掻き傷だがな、奥方にやられたらしいぞ」
「ほう、それはまた何故に?」
「おのれより十四、五は若い女を作ったのがばれてしまったのだそうだ」
「お元気過ぎるのも考えものだなあ」
だの、その手の他愛のない噂話は枚挙に暇がない。

そうかと思えば、こちらの方面の話もある。
「あそこの寺の住持が、また稚児を増やしたそうだぞ」
「なんと。上人はお幾つになられたか」
「確か、六十の峠はとうに越えておったはずだがな」
だの、
「何某どのが毎晩のように通っておられる屋敷だがな、あそこにはめぼしいのは男しかおらぬが」
「やや、まことか。おれはてっきり何某どのは女にしか興味を持たぬ方だと思うていたのだがな」
「いや、どうして。男の道にも明るいようだぞ」
「お盛んなことだなあ」

と、こんな話もあり、どちらにしろそう言った話をしている男達の目は昼間お勤めをしている時よりも
はるかに真剣で、爛々と輝いている。

―この時代、既に男色はあった。
どこから始まったのかと言えば、真言宗に代表されるような山岳密教の僧達の間から、である。
世俗から離れ、一切の煩悩を己から切り離すための修行を山中で、男子だけで行う密教の僧達にとって
厳しい所へ身を置けば置くほど、身体の内から湧きだして、断ちがたい欲が在った。

―性の欲求。
断てず、持ち続けたそれは肥大して、凝り固まるように僧達に内在した。
けれど吐き出す出口が無い。
無いから余計に身の内に溜まる。
若い僧には身悶えんばかりであったろう。

そこで諦めて、皆が悟りを開くことが出来れば何の障りも無いのだが、そう簡単に断ち切れるものなら
そもそも修行なぞ要らない。
葛藤こそ修行なのだ。

…とは言え、それはそれ。
「女体」への飽くなき欲求は、しばらく断てぬままずるずると引きずることになる。

修行の身において、女と交わることは許されない。
教えによって禁じられているからである。

これにて、己の拠り所によって女と交わる道は断たれることになる。
―が。
道が無いからと言ってそこで諦めないのが人である。
僧達は代替の案をひねり出した。
一種発明である。

―無の中に有を求めて進化してきたのか人間であり、
仏教における解脱(げだつ)とは、進化である。

女が居ない。
しかし性の欲求を断つことが出来ない。
そんな苦しい僧達に救いの手を差し伸べたのは、誰在ろう真言宗の開祖、空海であった。
この時代、真言密教の秘典にはこう書かれている。

『男色は空海が唐より持ち帰ったものである』

なんと具体的な光明だろう。
密教僧たちは、自分達の中に渦巻いて出口を持たなかった塊に、自分達の手で出口を作ったのだった。

―空海上人の思し召しなら。

おのれの心にそう呪をかけた。
かけるやいなや、出来たての出口―欲求のはけ口―から、堰(せき)を切ったように性欲が
ほとばしり出た。

それがおそらく「日本の男色」のはじまりである。
そのようなわけで、平安の世にも男色は確かに存在したのである。

当時、寺と都人とは密接な関係を持っていた。
当然、寺の僧から「そのような」話が都人の耳へ届いても何ら不思議はない。

元より楽しいことを探して生きているような都人にとって、新しい享楽の形となるであろう
男色が完全拒絶される理由はどこにもない。

だから位の高い都人ほど、新しく現れた遊戯に夢中になったかも知れない。
「男をたしなむ」
そんな心意気で。


■二■

「ところでそなたはもう男としてみたことがあるかえ?」
「いや、ないが。そういうそなたはどうなのじゃ」
「わたしもない」
宿直番の小さな集団の中からまた、取り留めのない話が始まった。
「わたしはあるぞ」
「なに、」
「まことか」
「どこでだ」
集団の一人が言った一言に、塊が色めき立った。
「ああ。まことの話だ。菩提寺の住持と話をしていた折に、そのような話になってな」
聞いた集団に、一人の男がうなずく。
「して、どのような具合だったのじゃ」

「…」
昼間には見せたことのない真剣な眼差しをして話に聞き入る宿直番達を遠巻きに見た博雅は、
ひとつ息をつくとまた月を見上げた。

「こんなに良い月なら、やはり晴明と見るのがいいな―」

部屋の端で月を見上げながら、また、博雅がつぶやく。
やり過ごし方は違えど、博雅もまた他の宿直衆達と同じように暇だったのである。
勤めをないがしろにしているわけではないが、平穏につい心が緩む。

―と、そこへ。
「博雅どのはいかがです、男としてみたことがありますかえ?」
不意にかけられた声に、月を見ていた博雅が返事をする。

「はあ―」
…この答えが良くなかった。

「なんと、博雅どのは男を知っておられるか!」

たまたま、話に加わっていなかった博雅に面白半分に話題を振ってみただけであったのに、
思いがけない答えが返ってきた。
そのことに嬉々とした男が大きな声で言ったから始末が悪い。

「なんと、博雅どのが?」
「隅に置けぬのう」
「女の浮いた噂を聞かぬのはそのせいか!」
「どれ、では皆で博雅どのの話を聞こうではないか」

一斉に博雅に視線が集まり、驚きと好奇心の渦が博雅に押し寄せる。

「…は?」
驚いたのは博雅の方である。

晴明を思いながら月を見ていた自分に、どんな事を話しかけられたのか正直―、知らない。
眠たい子供が鼻先に食事を運ばれて、反射で口を開けるのと同じである。
ただ、話しかけられたから当たり障り無く返事をした―それだけだったのである。

しかしそんな事情など他の宿直衆は知るよしもない。
もっと言えば、そんな事情など在ろうと無かろうと関係ない。

この集団は、夜長をやり過ごせるだけの面白いことに飢えているだけだからである。

この瞬間、今夜の餌食は博雅になった。

「して、どこの誰と寝たことがおありか、博雅どの」
       「…っ、なんですって?」

「どこかの寺のまだ手の付いていない稚児をお借りあそばされたか」
       「まさか、そのようなことはありませぬ」

「ではご自分のお屋敷の子舎人童か」
       「とんでもない」

矢継ぎ早に浴びせられる質問の雨に、博雅は眉を曲げて首を振る。

こんな時、
「いやあ、それは夢心地でありましたよ」
とおどけて話に乗るか、
「男と寝たことはありませぬ」
強い調子でそう一言、宿直衆に言ってやるか、
どちらかで回避出来るこの状況に、博雅はどちらもすることが出来ない。

本当でないことに尾ひれを付けて面白おかしく話をする。
そんなことが博雅に出来るはずもない。
出来ないのが博雅なのである。

それに、
―男と寝たことはない。
と、言うことは、博雅にはもっと出来なかった。

それを知ってか知らずか、煮え切らない博雅の返答に宿直衆の一人が口を開く。

「では、童ではないのかえ、博雅どの」
「……は?」
言われた博雅が思わず聞き返す。

「稚児やら子舎人童でないとするなら、成人した男子が博雅どののお相手か」
「なるほどそれでは姫との噂も立たぬ訳ですな」
「姫よりも良い男がおいでになると言うことですな、博雅どの」
「なんと!」

宿直の思いつきに、他の宿直衆が驚きの声をあげる。

―当時の男色とは、男性を男性として相手にするものではなかった。
前述のとおり、女色の代わりとして発生したものだから相手は専ら線の細い、若い「男の子」が
その相手となっていたのだ。
まだ男になりきらない、少年が内包する女性的部分を愛するのがこの頃の男色の一般的な姿である。
だから宿直の一人の思いつきは、他の者の度肝を抜いた。

「そう言うことでありましたか、博雅どの」
勝手に納得した一人の宿直がそう言って何度かうなずく。

「………」
開いた口がふさがらない、とはこの事かと半ば感心するような思いで黙っていた博雅の姿を、
「肯定」の意味と都合良く解釈した宿直の一人がたたみかけるように博雅に問いを重ねる。

「して、お相手はどこのどなたか」
「なんですって?」
やや怪訝な表情の博雅にひるむことなく、宿直が続ける。

「ですから童でないとしたら、どこのどなたが博雅どののお相手なのですかと聞いております」
「そうじゃ、誰ですか博雅どの」

「いえ、だから誰が相手かと聞かれましても―」
頭を抱えるような思いで博雅が言う。

―例えば晴明が同じ立場に置かれたなら、何か適当なことを適当に言って適当に済ませてしまうのだろうが、
自分にはそんな晴明の真似事など、死んだって出来ないだろう。
困惑しきった博雅が、ほとんどしかめっ面になりながら首を振る。
博雅にとってこの状況は、突然の惨事でしかなかった。

「博雅どのが言えぬなら、我々で当ててみましょうか」
博雅の苦渋の表情を「言いたいが言えぬ顔」と勝手に解釈した宿直の一人が言った。

「おお、そうしよう」
「誰じゃ、誰じゃ」

当の博雅を置き去りにして、宿直衆の、博雅の相手を捜すあてのない小会議が始まった。

「そうは言っても博雅どのはこれまで他に姫との浮いた話がなかったから、どのような好みなのか
まるで分からぬなあ」
「笛やら琵琶やらの話なら話題には事欠かないのだがな」
「うむ。まったくだ」
「さて、どうしたものやら…」

と、早くも予想は難航し、宿直衆は思案に暮れる。
そのまま話がうやむやになってしまえば良かったのだが、考え込んでいた宿直衆の中の一人が言った。

「では、博雅どのが特に懇意にしている方はどなたか」
その声に他の宿直がうなずいた。
「おお、それは良い切り口ですな」
話題が息を吹き返す。
「そして美しい男でなくてはな」
「うむ」

言いながら―、

………。

「―む?」
「…ぅん?」

しばらく腕を組んだり頬杖をついたり互いと目配せをしたりしながら思案していた
宿直衆の中の幾人かがふと、何かに気づいたように唸った。
それに気づいた宿直が、唸った宿直を見て言う。

「なんじゃ」
   「いえ―…」
「どうしたのじゃ」
   「……、」

聞かれた宿直は口ごもりながらも「ほれ、」だの、「美しいと言えば…」だの、分からない者へも
それとなく何かを伝えようとしているようだった。
大の男がなぜかもじもじしているのである。
そんな様子が少しばかりの間、続く。
そして、

「…あ」

と、何やらに気づいた誰かが未だ気づかぬ誰かに視線を送る。
その視線を受けた誰かも、それに気づく。
そうしてそんなひらめきの波は、静かに、けれども大きなうねりとなって集団に広がっていった。

「―…」

…それまで口々に予想やら諦めの言葉を吐いていた宿直衆がはたと黙る。
互いに近い者同士で顔を見合わせた。

「…博雅どのと懇意にしておって、」
「姫ほどに美しい男…?」

寄り合っていた宿直の誰かがつぶやいた言葉を皮切りに、そこにいたほとんどの男が―、

「…!」

全く同じ男を思い浮かべた。

瞬間、
青ざめた男が居た。
頬を心持ち赤らめた男も居た。

とにかく様々な色を表情に貼り付けた宿直衆が
一斉に博雅を見る。

「…はい?」

話題の主であるはずなのに、人の輪から膝一つ離れた所にぽつんと座していた博雅は急に大勢の視線に
捉えられて小首を傾げる。
自分の事ながら、ろくろく話を聞いていなかったらしい。
そんな博雅を前に、今度は宿直衆の何人かがひそひそと互いをつつき合い始めた。

「そなたが言えよ」
「馬鹿を言うな、そちらが言えばよかろう」
「馬鹿はどちらだ、滅多なことを言うて呪われたらどうするのじゃ」
「それはこちらとて同じ事じゃ」

奇妙な小競り合いが博雅の目前でしばらく続いた。

「―」
そんな宿直衆の姿を不思議そうな目で博雅が見ている。
やがて宿直の一人が仕方ないというように息をつき、景気づけに唾を飲み込むと、
勢いに任せて博雅に言った。

「安倍晴明どのではあるまいか、博雅どの」

「……何が、です?」
不意に言われた博雅が何事かと、心持ち首を突き出して言う。

真面目にとぼける博雅に、宿直の男が息をつく。

「ですから、博雅どののお相手の男のことでございます。博雅どののお相手は安倍晴明どのではないかと」

「……へっ?!」

どこから出たのか分からないような奇妙な声で驚いた博雅にたたみかけるように宿直が言う。

「安倍晴明どのなら博雅どのと特に懇意にしておりますし」
「逆に博雅どの以外とは、ほとんど関わりが無い」
「おまけにどこかの姫よりも美しいときておる」

言われた博雅は何を言い出すのかと額に手を当てて首を振る。

「何をおっしゃっているのか!」

驚いた博雅が声をあげた。
あれだけ明後日の方向へ迷走していた話が、結論に達した瞬間真実に行き着いている。
博雅は得体の知れない恐怖に身震いした。

そんな博雅の慌てた風情に宿直衆が確信してしまう。

「そんなに強くおっしゃらなくともよろしかろう」
「それ程に慌てられるということはわたしたちの予想もまんざら外れてもいないと言うことでしょうか」
「はああ、博雅どのはあの安倍晴明どのと―」
「―…」

勝手に納得し始めた宿直衆を前に、博雅はここから逃げ出したいと心の底から思った。
強い否定も面白半分の肯定も出来ない自分が、勢いに乗った宿直衆に言ってやれる事など何もない。
何か言った所で、火に油を注ぐ事にしかならないのだから。
そんなこと位博雅にも分かっている。

突然自分に襲いかかった嵐を、仕方がないから黙りを決め込んでやり過ごそうとした博雅に、
宿直衆の一人が言った。

「しかしお相手が安倍晴明どのとは博雅どのも酔狂な」
「―は?」

―この場合、酔狂とは「物好きな」と言ったような意味である。
言われた博雅はため息をつきながらも言葉を発した宿直を見た。

「そうであろう?例え息を呑むほどに美しかろうと、あのように人嫌いを絵に描いたような
偏屈な男がお相手とは。他に美しい姫がごまんと居るでしょうに」

「―…」
言われた博雅がふと黙った。

「確かにな。安倍晴明どのは美しいが、どこか冷たい感じがするなあ」
「陰陽師としては天下一品なのであろうが、何を考えているのか分からぬ節がある」
「まったくだ」

「―…」
晴明に対する心像を口々に並べ始めた宿直衆を、博雅が黙って見つめている。
そんな博雅に、別の宿直が何の気無しに言う。

「博雅どのは安倍晴明どのにたぶらかされているのではありますまいか?」
「…晴明が、わたしをたぶらかす―?」

それまで黙っていた博雅が眉を動かした。
ええ、とうなずきながら、冗談交じりに宿直が続ける。

「幾ら優れていると言うても、所詮は一介の陰陽寮の陰陽師。この先どれほどの出世が見込めるものか」
「…」
「それに引き換え博雅どのは天皇家直系のお血筋。安倍晴明どのは知略家の陰陽師ですからなあ」

「…っ」
ここへ来て博雅の表情が変わった。
宿直達が晴明をどのように思っていようと、それは宿直本人達の見方なのだから仕方ない。
自分がとやかく言う筋合いの事ではないのだ。
そう思って博雅は黙っていた。
しかし今の宿直の言葉を、博雅は聞き捨てに出来ない。

「お待ち下され」
それまでとは明らかに違う声音で低く発せられた博雅の声に、宿直達が博雅を見る。
大勢に一斉に見られた博雅は、それででも毅然とした光を瞳に宿して口を開いた。

「晴明はわたしの大切な友です」
はっきりと博雅が言う。

「わたしをたぶらかしているなどと、晴明に侮辱を加えるようなことはおっしゃらないで頂きたい」

静かで強い光のような博雅の言葉が続く。

「確かに晴明のことは好きです。懇意にもしております。しかしそれは男だとか女だとかという括りで
好いているのではありませぬ。美しく、聡明な精神を持つ一個の人として大切に、好もしく思うているだけです。
ですから」

一度息を吸って、博雅が言う。

「これ以上の晴明に対する侮言は止めて頂きたい」

真顔でそう言った。

「―……」

ぴしゃりと言い切られて、宿直衆は黙ってしまった。

今までとは天地ほど差のある博雅の言葉の雰囲気に、呆気にとられた者さえあった。
やがて、なんとなくこの話題を続けているのが気まずくなった宿直達は一人、また一人と話の輪を離れ始め、
この話がされることは二度となかった。

もともと全てが面白半分の冗談であったはずなのに、普段穏和な博雅が声を大きくした時点で、
宿直衆の予想が当たっていたことの裏返しになるのだが、そこに気づかないのが都人の幸せなところである。
むしろ、博雅を怒らせてしまったことの決まり悪さに、さっさと車座を解いてしまった。

『美しく、聡明な精神を持つ一個の人として大切に、好もしく思うている―』

これ程直情に、真っ向から愛を叫ばれて、冷やかしと噂を飯の種にしているような都人の戦意を喪失させる
ことが出来るのは博雅くらいであろう。
―混じりけのないひたむきな思いは、時に他人の心を融かすこともある。


■三■

それから幾らかの間の後、博雅はまた独りで月を見ていた。
他の宿直達はそれぞれ別の噂話を始めており、いつもと同じような、のんびりとしたにぎわいが夜気に漏れている。

部屋の隅で胡座をかいて、欄干に肘を置いて頬杖をついた博雅は藍色に静かに浮かぶ月を見ていた。
先程より傾きを増した月を真っ黒の瞳に映しながらふと息を抜く。

「晴明―」

息をついて出たのは、晴明の名だった。

―すると。

『にぅ…』
小さな鳴き声と共に、博雅の胡座をかいた膝頭に小さな何かが当たった。

「…ん?」
気づいた博雅が月を見上げていた視線を下へ降ろす。

「…晴明か」

言った博雅がふわりと笑った。

空から降ろした博雅の視界に入ったのは、青みがかった濃褐色の毛色をした若猫だった。
若猫は、その小さな前脚を博雅の膝頭にちょこんと乗せて博雅を見上げている。

現れたのは猫。
けれど博雅の目の前に居るのは紛れもなく、―晴明。

博雅にしか分からない事が、晴明との間にはたくさんあった。
今宵のこの出来事も、その一つ。

晴明の瞳と同色の毛色を持つ若猫に、博雅が笑みを向ける。
「どうしたのだ、こんな時間に」
小声で言いながらゆっくりと猫の背を撫でる。
『にぅ…』
博雅に撫でられながら、猫は心地よさそうに小さく喉を鳴らして目をつむる。
「…」
吸い付くように完璧な猫の毛並みに惚れぼれしながら、博雅は猫の胸の毛に指を滑らせた。
毛並みに逆らい、毛並みに逆らわず、緩やかに、慈しむように猫に触れ続ける。
すると猫は『ここも、』と言うように首を持ち上げて博雅の指をねだった。
乞われるまま、博雅は猫の首と頬のふわふわの毛に人差し指と中指を埋めて、優しく撫でてやる。

『…ん』
少しの間猫はじっとしていたが、やがて博雅の手を離れて滑らかに歩き出すと、博雅が肘をついて
いる欄干にひょいと飛び乗って座った。
ちょうど博雅の顔のすぐ脇に、猫の顔がある。

「何かあったのか」
普段、滅多なことでは現れない晴明に、博雅が聞く。
『それはこちらの台詞というものだ、博雅』
猫の声帯を通して、晴明の声が聞こえる。
「どういう事だ」
のんびりと聞き返した博雅に、猫がため息をつく。
すぐ近くにあった博雅の頬を自分の真っ白のひげでつついた。
『どういう事だ、ではあるまい。あんな不穏な会話』
言うと猫はぷい、と博雅から顔を背けて月を見る。

「…晴明」
本当に珍しく拗ねたような晴明の口調に博雅が笑う。
人の姿をした晴明なら、どんな表情でこの言葉を言っているのだろう―?
考えた博雅の頬が緩む。

「悪かったよ、晴明」
猫の耳に唇を寄せた博雅がそっと言う。
ふいに近くで響いた博雅の言葉に、猫の耳がぴくりと動いた。
『―なにがだ、博雅』
振り返りながら言う猫に、博雅が続ける。
「あの宿直達がおまえを酷く言う前に、話に片を付けてしまえばよかったのだと思うてな」
博雅の申し訳なさそうな言葉に、猫は『ぅん、』と鼻から息を抜いて言う。
『そんなのは問題ではない』
素っ気なく言った猫の月色の瞳を博雅が見る。
「では、何だ?」
見られた猫はそれでも平坦な声で言った。
『おれのことなどどう言われようと関係ない。例えばおまえとの仲が知れた所で失うものなど
そう無いからな。けれど』
博雅の方を見ながら、しかし博雅を通り越してその背後にかたまっている宿直達に冷たい視線を
注いだ猫が言う。

『あの虚け共はおれをだしにしておまえを侮ったろう。それが気にくわない』

はっきりと怒の感情を表した晴明を、博雅は食い入るように見た。
猫の姿であってもありありと分かる晴明の仏頂面とも言える面持ちに、なぜか、博雅はとてつもない嬉しさに
襲われた。

―ひょっとしたら、人の姿よりも猫の姿の方がより心が形になりやすいのかも知れない。
そんなこともぼんやりと考えながら、博雅は欄干についていた頬杖を解くと、空いたその手で
自分の顔の横で丸くなっている猫をその形のまま、囲い込むようにそっと抱いた。
『なんだ、博雅』
前触れ無く抱き寄せられて、猫が声を上げる。

「―ありがとう、晴明。おれは大丈夫だよ」
猫の、柔らかい頬の毛に鼻先を埋めて、博雅が言った。
『―…』
博雅の小さな言葉を聞いた猫は、博雅に抱かれたまま、目を閉じる。

『しかし博雅。話を切り上げるというならなぜ適当に「男と寝ていない」と言ってやらなかったのだ』
博雅の腕の中で猫が言う。
猫の言葉に、博雅は少し笑って言う。

「それでは嘘をつくことになろう?」
博雅の言葉に、猫は長い白眉の片方を動かす。
『嘘ぐらい幾らでもついてやれば良かろう。まともな話ではないのだ』
「そうではないよ」
猫の言葉に、博雅は笑って首を振る。
『?』
不思議そうな光を点した猫の瞳に、博雅がそっと言う。

「そう言ったら、おれはおれに嘘をつくことになってしまう。おれの中のおまえに嘘をつくことに
なってしまうのだよ」
『……』
「だから言えなかった」

静かで暖かな博雅の言葉を、猫は黙って聞いていた。
身体のすぐ近くで響く声から、博雅の奥が見える。
言葉を無くした晴明を見つめ、博雅は胡座をかいている自分の腿をぽんぽん、と、二度叩いた。

―ここへおいで、晴明。

『…』
猫は誘われるまま欄干から静かに立ちあがると、しなやかに身を躍らせる。
音もなく床に降りると、とことこと歩いて博雅の足の上に乗った。
組んだ両足の真ん中にうずくまり、左の腿の上にあごを乗せて座り込む。

自分の一番近くに落ち着いた晴明に視線を降ろして、博雅がふと笑みを含む。
艶やかで滑らかな猫の毛を撫でながら小さな声で言った。

「早く宿直番が明けないかな―」
『うん?』
「早くおまえに逢いたい」
言われた猫が、膝の上で笑った。
『今こうして会うているではないか』
猫が言うと、博雅が首を振る。
「違う。おれは今、おまえを抱きたいのだよ」

『―』
直接的に言われた猫が、思わず博雅を見上げた。
猫と視線を合わせた博雅がもう一度言う。

「今、逢いたい。今、抱きたい」

『―』
強烈に誘われた猫が、月色の瞳で食い入るように博雅を見た。
その後、目眩をやり過ごすように目をつむる。
何かを払うようにかぶりを振ると、小さな声で言った。

『抜けだして来い、博雅』

「―」
―猫の囁きに、博雅が瞬く。
そんな博雅を前に、猫は酔うように小首を傾げて博雅を見つめると、ふわりと言葉を紡ぎ出す。
『抜けだしておれの所へ来い、博雅』
言って、博雅の腿に頬を擦りつける。
晴明もまた、博雅を誘ったのだった。

「…」
言われた博雅は足の上で丸くなっていた猫をそっと抱え上げると、何かに突き動かされるように
立ちあがる。
静かに建物の出口を目指した。

 

→蜜へ。
→辣へ。

辣

 

 

 

 

 

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