『輪廻。』
1.【生あるものが死後、迷いの世界である三界・六道を次の世に向けて抜
け生と死を 繰り返すこと。】
2.【執着の深いこと。】
胡座をかいた晴明のひざに頭を乗せて、博雅は、ぼんやりと夜を見ていた。
真ん丸に近い、ほっくりとしたあたたかな色味の月が、晴明の庭や、軒先や、
濡れ縁を柔柔と照らし出している。
月の柔光に照らされる濡れ縁に、二人がいた。
降るように注ぐ月光に浮き上がる晴明と博雅の月影は一つ。
座した晴明の右のひざに、博雅は頭を乗せて横たわっている。
「―」
「…」
何も話さず、酒も飲まず、ただそうして二人で、夜を見ていた。
長い夜を過ごすのに、何もせずとも、何かを話さずにおいても良くなったのは
果たしていつの頃からなのか。
疎通をするのに必要なのは行動だと思っていた。
誰しも、己の考えが十割相手に通ずることなど、まずない。
けれど、何もせずともほとんどが分かるから、敢えて二人で何かをする必要は、
いつの頃からか無くなっていた。
月を見ていた。
星を見ていた。
何もない、宵紫の空を見ていた。
山の峰を見ていた。
時折重なるふたつの呼吸の拍と、
博雅の眉を撫でる晴明の指と、
晴明の膝に触れる博雅の手と。
二人の人は、そのまま融けて合わさり一つになって、夜気に流れて消えゆくように
静かに、そこに在った。
虫の鳴く声は晴明の呼吸と混じり、
夜露を運ぶ湿り気を帯びた宵気も博雅の呼吸と混じった。
夜が人になり、人が夜になる。
二人と境目を無くした夜が、静かに横たわっていた。
「…」
「―」
ふと、夜を見飽きた訳ではなく、二人は同時に目を閉じる。
境界の無い夜と人とのすぐ間近にある幽かな何かに、感性を澄ます。
―そこに見ゆるは、果て世。流転の入り口。
入れば、
余分なものも足りないものも何一つ無く、今宵の今こそがこの世の本然。
どれかが消える時に何かも消え、
ここに生まれくるものがあるなら、それに添うべき何かもまた生まれるように。
誰かのために息をするのではなく、何かのために何かを為すのではなく。
全ては瞬きの間に生じた、まさに必然。
定点は常に一瞬で、前後に伸びる軸だけが。
往くだけ。
戻れず。
不可思議……刹那―。
「…」
「…」
肌に触れる手指が。
髪に触れる手指が。
感じた二人が、そっと目を開けた。
それぞれの視界に、より青みを増した夜気が広がる。
空から目を離し、至近の人を見上げる、その眼差しを。
そっと目を伏せ、至近の人を感じるその気を。
「―…」
刹那と永遠の折り重なった複雑の中に身を浸す二人は、どちらからともなく
微笑い、どちらからともなく、互いの唇を求めた。
いま触れ合うその温度だけが、刹那と永遠を繋ぐ核だった。
核にようやく繋がれて、後の不可思議と「刹那」と先の不可思議が撚り合わされる。
「…」
「…」
晴明のひざに触れていない、空いている方の手を、博雅が少し持ち上げる。
「…」
感じた晴明が、す、と手を伸ばしてそれを握った。
「…」
自分より、幾ばくかひんやりとした細指を、博雅は緩緩と撫でる。
言葉のない『愛しい』の時間が流れていた。
震えるほどに。
切ないほどに。
我が身に感ずる、相手の温度が愛おしい。
けれど今、まばゆいばかりのこの時の刹那を感じる胸奥は、
―焦げるように熱い。
何故、何時人は終わることを知るのか。
―…いつかは終わる。いつ終わるとも知れぬ。
ならば終わることを知らねば良いのか。
相反、極致を知るからこそ刹那は胸に沁み、
不可思議が記憶に痛い。
「―…」
不意に、博雅の指が、柔く撫でていた晴明の指を握りなおす。
そっと自分の口元へ引き寄せて、細い人差し指に唇を寄せた。
「…」
博雅の温かな唇に触れる自分の指に視線を落とし、晴明は握られたその手の
親指の爪先で、博雅の唇を撫でる。
朝が来るまでは。
この輝色の時の終わりは来ない。
秋の夜長はただ『愛しい』の時間。
夜と共に横たわる博雅の身の、晴明の温度はすぐここにある。
―黄微の月の青い、青い夜。
満ちる月はやがて欠けゆく。
さて次に光さすは、いつの夜か、いつの世か。
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