ムゲンムソウ

 

蝉の声が聞こえる。

明るく、暑く、それでも穏やかな日差しが晴明の屋敷の濡れ縁に降り注いでいた。
濡れ縁にひとりごろりと横になる晴明は、片方の腕を枕代わりに
仰向けに寝転がっていた。
片膝を立て、もう片方の足はだらりと無造作に投げ出したまま、
放り投げられた人形のごとく、何ものにも頓着した様子がない。
狩衣の裾が風にまくり上げられてもそのままでいる。

投げ出された足の方の括り袴がふくらはぎの辺りまでずれ上がり、
白い足が見えていても 気にも留めなかった。

ただのんびりと、ひとり仰向けに寝転がる晴明は
晴明に隣り合う庭の草木と同じ気で、そこに在った。

「…」

ふと、晴明は頭の横に置いてあった硝子の鉢を手に取った。
鉢、と言っても大きなものではない。 普段使う椀よりすこうし小振りのものである。
晴明が片手で包める位の、本当にちいさな鉢だった。

「…」

手に取った硝子鉢を、晴明は寝ころぶ自分の目線の真上に来るように持ち上げる。
硝子鉢を陽にかざし、底から陽を透いて見た。

「…」

極々透明に近い、夢のような 乳青色の硝子鉢には、透明な液体が入っていた。

それは、水。

−けれど、ただ水であるだけではなかった。

ちり…、ぱち、ぱち、ちり…。

小さな音を立てながら、水から、たくさんの泡がわき上がる。
乳青色の硝子鉢の内壁に寄り添うたくさんの泡が、後から後から際限なく
水面を目指していた。

硝子の底辺から、
硝子の側面から、
あるいは水そのものの中程から。
小さな泡は、生まれ、育まれて水の中に現れる。

「…」

乳青色の光の中を上へ上へと無心にのぼってゆく小さな泡を、
晴明はただ眺めていた。

そうして同じ格好のまま、何刻の間、ちいさな乳青色の世界に広がる無限を眺めて、
晴明は無心に気を馳せる。
身体はそのまま都に置いて、そのほかのものは皆、この手のひらにおさまるほどの
乳青色の中に投じていた。

ふわり。…ほうわりと、自分を乳青に漂わせる。
―気持ちの「たが」を外し、
精神を解いて、その全てを乳青に溶かし込む…。

鼓膜以外からも身に滲み込む、
―気のはぜる音を、聞く。

他を迎えず、
何も望まず、
いつも凪いで、
ただここにいる。

ただ、彼の人を待つ。

生きていることを感ずる。
彼の人がいることで、自分が生きていることを感ずる。


意味のある生を、自分は歩む。

彼の人のために生きるとか、そんな大仰なものではない。

ただ、自分が息をしていることの確かな意味を、
彼の人が与えてくれる。


―逢いたい、と。

掛け値なしに思うことが出来る人間を、一生のうちに一人、持てた自分は
なんと幸せなのだろうと思う。

そしてその人間に選んでもらえた自分は、なんと幸せなのだろうと、思う。


乳青色の中ではぜる泡にぼんやりと視線を絡め、晴明は―。

「ひろまさ…」

口を開けば、呪文のように身を縛る男の名が紡ぎ出された。

「ん?なんだ、晴明」
「―」

鮮明に響くその声が幻でないことはすぐに分かった。
漂う乳青から自分を回収する。
乳青色をかざしたままの体勢で、声のした方へ顔を向けた。

「博雅」
「おう」

呼ばれて、視線を合わせた博雅が短く返事をする。
呼んだ晴明が、ちいさく瞬きをした。
寝転がったまま、かたわらの博雅を見る。
晴明の視線のすぐ先―、寝転がる晴明のほんの数寸隣に、博雅が座していた。

「…いつからそこにいた?」
「ん?」
晴明の小さな声に、博雅は一瞬斜め上を見上げて考えた。
「そうだなあ、四半刻はこうしていたかな…?」
そう言って笑う。
「上がる前に何度か声をかけたのだが返事がなくてな―。 けれどおまえの気配は
あったから上がってきたのだよ」
「―ふうん」

晴明は博雅に合わせていた視線を乳青色に戻す。
気がつけば乳青色の硝子鉢の底から覗く空の色が、夏の青から、淡い紅紫に変わっていた。

「で、上がってきてみればやっぱりおまえはここにいた。
けれどおれが隣に座しても気付かぬから、そのままこうしていたのだよ」
博雅の言葉に、乳青を瞳に映したままの晴明がふと微笑する。

「おまえだったから気がつかなかったのだ」

「うん?」

「博雅の気は、厭じゃないから」

「―うん」

晴明の穏やかな声に、博雅は短く返事をした。

「―何をしていたのだ?」
「…うん―」

聞かれた晴明は視線を博雅と合わせると、今まで枕代わりにしていた腕を持ち上げる。
す―。
と、博雅の前へ伸ばした。
「―」
博雅が無言でその手を取る。
少し反動をつけるように自分の方へ腕を引くと、その力に導かれた晴明が
滑らかに上体を起こした。
ほんの間近で向かい合った博雅を、晴明がわずかに見上げて言う。

「しばらくこの水を見ていて―」
「うん」
「あと、自分の中に居た」
「―ふうん」

晴明が口にする不思議な表現に、博雅は素直に頷いた。
晴明も説明するのが面倒なのではない。
驚くほど稚拙な表現は、けれど晴明が居た場所を端的に表す最も的確な表現だった。
博雅にも、感覚でそれがわかる。

「しかし晴明。水、って―」

言いながら博雅は、晴明の片手の中にあった硝子鉢の中を覗き込む。

「ただの水だよ」

不思議そうに硝子を覗き込む博雅に、晴明は笑って言った。
言いながら、すぃ、と小さく口笛を吹く。
いつもなら手を打つのだが、片手には硝子鉢、片手は博雅に握られたまま
だったので、 仕方なくそうした。

「―」

すると屋敷の奥から、薄紅色の唐衣をまとった女が現れる。
手には青白い釉薬の塗られた瓶子が乗った膳があった。
晴明の隣に膳を置くと、静かに礼をして元来た道を消えてゆく。

「入っていたのはこの水だよ」

言いながら晴明は、手にしていた硝子鉢の中の水を庭に向かって捨てた。
空いた硝子鉢を膳に置き、青白い釉薬のかかった瓶子の口に刺さっていた棒状の何かを引き抜いた。
「それは?」
不思議そうに聞く博雅に、瓶子から硝子鉢へ液体を注ぎながら晴明が言う。

「石彫などに使う鉄筆だ。これを挿しておくと、水の力が逃げにくくなる」
「水の力―?」

うん、とうなずいてみせて晴明が硝子鉢へ注いだ水に、博雅は目を奪われる。

「―ほう…」

見入る博雅の視線の先で、注がれた透明な水から、たくさんの泡が立ちのぼっていた。

ちり、ちり…、ぱち、ちり…。

ほんのかすかにかわいらしい音を立てながら泡を作っている水は、暮れかけて紅紫色に
染まった空をその身に含んで、夢のように淡く揺らめいていた。
自らから生まれる無数の泡に水面を揺らす不思議な水にしばらく目を奪われていた博雅は、
硝子鉢から目を離す。
目の前の晴明に視線を合わせて口を開いた。

「とても、きれいだ―。この水には、何か呪をかけてあるのか?」

水の入った硝子鉢を持ち上げて見ながら、博雅が言う。

「いや、自然のものだよ。山から採って来た水だ」
「山から?」
「うん。どこの山でも採れるというわけではないが、湧き水の中にはこのように
気泡をたくさん含んでいるものもあるのだ」
「―そうか…、自然になあ」
感心する博雅に、晴明は続ける。
「昔からこの水は胃の腑の具合を整えると言われていてな。 仁和寺の住持に頼まれて
調達した内の幾らかをとっておいたのだ」

「む、飲めるのか、これが」

晴明の言葉に、博雅は驚いて声を上げる。
「飲めるさ」
博雅の声に笑いながら、晴明が言った。
「―」
それでも博雅は水を眺めている。
晴明の言葉に嘘はないだろうが、ちりちりと音を立てながら泡を吐き出している
水が飲めるとは、博雅にはとても思えなかった。

「じゃあ、飲んでみようか」

そんな博雅を見た晴明はふと笑う。
硝子鉢を持つ博雅の手に自分の手を添えると、博雅の手ごと、硝子鉢を自分の口元へ引き寄せる。
紅を引いたように艶めいた唇をわずかに開いて、
こくり。
と、ひとくち水を含んだ。

「ほらな」

飲み口から滴った水が博雅のひとさし指にひとすじ垂れる。
博雅の指をぺろりと舌で舐めながら、晴明が笑った。

「―ふむ…」

晴明の仕草と、指先にもたらされた甘い刺激に博雅はわずかに震えて、それでもうなずく。

「―」

少しの間水を見て、博雅も晴明と同じように、ひとくち水を飲んだ。

「―!」

瞬間、 水を喉に流し込んだ博雅が、思わず
ぱちぱち、
と大きく瞬きをして晴明を見た。

晴明はそんな博雅と目を合わせながら、
くく、
と笑う。

「どうした、博雅」

面白そうに笑う晴明に、博雅はひどく驚いた顔をさらして晴明を見る。

「水がな、晴明。おれの喉の奥で、踊った…!」

それを見た晴明は博雅の表情を真似て、
ぱちぱち、
と瞬きをして、博雅に鼻先が触れるほど近寄った。

「踊ったか、博雅」

嬉しそうに言う。

「おう、胃まで落つる途中でもまだぱちぱちと踊っておって、
今、どこに水があるのか分かるくらいであったよ」

子供のように興奮して、博雅は晴明に言う。
握ったままの晴明の手を、く、と握り込んだ程だった。

息が触れるほど近くにある晴明の瞳を見ても狼狽えないほど、 新しい水に興奮した
博雅に、晴明はまた嬉しそうに言葉を紡ぐ。

「驚いた?博雅」
晴明の声に、博雅がうなずく。
「ああ、驚いた。世の中には不思議が溢れているな、晴明―」
「―ぅん」

博雅が晴明の名を呼び終えるか終えないかと言う時―。

「―」
「―」

不意に、晴明の唇が博雅の唇を捉えた。
水に濡れて温度の下がった晴明の唇が、博雅の唇を淡くくわえる。
ひんやりとした柔らかい刺激に、一瞬動きを止めた博雅は、それでも
すぐに硝子鉢を適当に膳に置くと空いたその手で晴明の頬を包み込む。
晴明の好きな角度で、唇を合わせ直した。

ふわりと重なる呼吸に、究極の安息が生まれる。

そうして博雅がしばらく晴明に応えていると、ふと晴明が顎を引いて唇を放した。

「どうした。急に」

静かに聞いた博雅に、晴明は笑って首を振る。

「―どうもしない。博雅の顔を見ていたらしたくなったのだ」
「―…したくなる顔か?」

わずかに赤くなって言う博雅に、晴明は悪戯な笑みを浮かべると斜めに博雅を見た。

「なる」

そう言って、また一瞬だけ博雅の唇に唇を重ねた。

すぐに離れて、膳に置かれた硝子鉢を手に取る。
暮れかけて、紅紫から群青に染まり始めようとする空にかざして、光を透かした。

「今はこんなにはぜている泡も、時間が経つと力を失うのだ。
気泡は水から際限なく生まれるものではなくて、この水も時が経つとやがて
そこらにあるものと変わりなくなる」

「―」

「おれはこの水と、夏の空と、蝉の声の中で自分の中に居たのに。
博雅が来て、博雅と話して、博雅と唇を交わしている間に―、 時は経ち、
空の色が変わって、 鳴いているのは蝉ではなくて、秋の虫だ」

晴明の庭の下草の間からは、蟋蟀(こおろぎ)や松虫の声が聞こえていた。
昼間に聞こえた蝉より、その声はより隆盛の趣をたたえている。

「さっき自分の中からここへ戻ってきた時。おまえが居て、驚いた」

「―どうして?」

晴明の身体を引き寄せながら、博雅が言った。
引き寄せられて、胡座をかく博雅の足の上に横座りになりながら晴明が続ける。

「だっておまえを呼んだのじゃない」
「ん?」
「さっき一番初めにおまえの名を言ったのは、かたわらに居たおまえを呼んだのじゃない」

「うん―」
晴明の言葉に、博雅はただ頷いた。

「息をついたら、名を言っていたのだ」
「―」
「思うよりずっと先に、おまえの名が在った」

―それは晴明の中で。
息をするのと同じ場所に博雅が居る、と言うこと―

「博雅」
「おう」

「今日はどこへもゆくなよ」

博雅の腕の中で、晴明が言う。
視線は、自分の片手の中にある乳青色の硝子鉢に据えられていた。

「ああ、ここにいるよ」

ひとつ頷くと、博雅は晴明を抱く腕に少し力を込めた。
晴明の手の中にある硝子鉢を一緒に覗く。
晴明と視線の高さを合わせるように、晴明を抱いたままわずかに背を丸めた。

「―晴明は?」

背後から身体中に響く博雅の声に、晴明が酔う。

「ん?」

浮かされたように返事をして、すこしだけ博雅を振り返る。
そんな晴明の耳に唇を寄せた博雅が言った。

「晴明、おまえはまた水の中で自らへゆくのか―?」

「―」

鼓膜と皮膚から響き、低く、じわりと浸透する博雅の静かな声に、
晴明は吸い込まれるように目を閉じた。
寄せられた博雅の唇に自分の耳を触れさせ、首を振る。

「行かない。―ここにいる」

「そうか」

図らずもまた響く博雅の低声に、晴明はうなずいた。


「博雅といる…」

 

深く、遠く、清かな虫の声と博雅の息づかいは確かにこの世のもので。
決まってはいないこの時の期限は、心のありようできっと短くもあり、長くもある。

「博雅―」
「ん?」
「……もう一度言ってくれ」


決まってはいないこの時の期限は、心のありようできっと短くもあり、
―長くもある。

「―ここにいるよ、晴明」

願えば願うほどむなしい永遠は、乳青に囚われた透明な水のように。

―今はこんなにはぜている泡も、時間が経つと力を失うのだ。
気泡は水から際限なく生まれるものではなくて、この水も時が経つとやがてそこらにある
ものと変わりなくなる―

水は自分。
「水から」は「自ら」。

―晴明、おまえはまた水の中で自らへゆくのか―?

その一言でわかる。
博雅のその一言に含まれた気が、自分の中身を掬い上げてくれる。

思い描けば描くほど遠く遙かな永遠は、乳青に囚われたこの手の中の透明な水のように。
いつも美しく、視界から、姿を隠した。

何ものも有限を認識し、無限に逃げるな。

けれど。

「おれは博雅と」
「おれも晴明と」
         ―居る。

―そんな無限を夢想するのも、悪くない。

だって、
夢はかたち無いもの。

―「夢」は「無」―
―「無」は「夢」―

ならば。

―夢に限りは無い。

きっと。


―無限夢想は、夢限無、想。

 

 

 

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