自煉魔-ジレンマ-

■□□□

あの時、二人で酒を飲んでいた。
いつものように何の前触れもなくひょっこり現れて、

「なあ、酒でも飲まぬか」

そのように言って濡れ縁に陣取ったのだ。

―ただそれだけだったのに。


□■□□

夏も盛りを過ぎたある日。
夕刻を間近に控えて、空が藍と桃と紅を同時に含んだ薄布のように
淡く揺らめいている頃。
一人の男が晴明の屋敷を訪ねてきた。

「なあ、酒でも飲まぬか」

肩に黒い小さな猫を乗せて庭にたたずんでいたのは賀茂保憲だった。

「―」

晴明を見つめて笑みを含む保憲を、晴明もまた見返す。
「―どうぞ」
そう言って晴明は寝転がっていた体勢をふわりと起こして濡れ縁に座り直した。
―酒でも飲まぬか―
誘ったわりに、保憲の手に瓶子は無い。
肩に乗った黒い小さな猫が、じっと晴明を見ているばかりである。

「突然おいでになるから。大したものはありませんよ」

そう言って晴明はぽん、とひとつ手を打つ。
―すると屋敷の奥から、
「あい」
という涼やかな女の声が聞こえ、ややして一人の女が膳を手に濡れ縁へやって来る。

現れたのは燃えるような赤と、それより一段くすんだ海老紅の混じった唐衣をまとった美しい
女であった。
その手には、一つの瓶子と二つの杯がある。

「酒とおまえとこれが居れば、おれは他にはなにも要らん」

自分の肩に乗っていた黒い猫に唇を寄せながら保憲が笑う。
次いでちら、と晴明を盗み見た。

「―」

晴明はその視線に気づいても特に言葉を返さない。
代わりに、

「茜(あかね)、保憲どのに酌をして差し上げなさい」
―と言う。

「あい」
晴明の言葉が響くと、膳を持ってきた女は膳の瓶子を取って、かたわらに居た保憲に
視線を送る。
小首を傾げて見られた保憲はふと笑って、杯を取ると茜と呼ばれた女に差し出した。

「この娘は―?」

次がれた酒に唇を付けながら聞いた保憲に、晴明もまた茜に酒を注いでもらいながら
口を開く。
「今朝方濡れ縁にいた蜻蛉(とんぼ)です」
「―秋茜か」
「ええ。あと数日の命のようでしたので、その間せめて私の側へと思いまして」
晴明の返事を聞いた保憲は、茜と晴明を交互に見てふわりと笑う。

「ここへはいつ来ても美しいものに触れることができるな」
「―誰もがそうあるとは限りませんけれどね」

保憲の言葉にすかさず晴明が返しを入れると、保憲はさらに笑った。

「だろうな」

短く言って、保憲は茜に杯を差し出した。
茜は小さく笑みを含みながら、無言でその杯を満たす。

「なあ晴明」
「なんでしょう」

保憲に呼ばれた晴明は返事をすると、保憲を見る。
晴明に見られた保憲はふと笑いながら口を開いた。

「先日家に坊主が訪ねてきてな。まあ、仕事の話だったのだがそれとは別に面白い話を
聞かせてくれたのだ」
「ほう」
相づちを打った晴明に保憲が続ける。
「その面白い話というのが、昨今坊主の間で流行っている修行についてなのだ」
保憲の言葉に、晴明が眉を動かして小さく笑った。
「…坊主の修行に流行り廃りがあるものですか」
変化した晴明の表情を楽しむように、保憲が続ける。
「それはあるだろうさ。坊主だって一皮剥けばただの人間だからな」
保憲のわずかに嘲りを含んだ言葉に晴明がうなずく。
「―で、どのような修行が流行っていると?」
「うん―」
晴明の言葉に低くうなって、保憲が言った。

「選び難い二つの事柄の内から一つを選び出す」
「…七慢を越えるための精神の鍛錬ですか」
保憲の言葉に応えた晴明を見ながら、保憲が笑う。

「―そのような事をやっている内はまだ修行が浅いよな。迷っているうちは
まだ人らしい」

軽い調子で言いながら、茜に注がれた酒をあおる。
するとそれを聞いた晴明がふと唇の端に笑みを含んだ。

「ならば保憲どのならいかがするのですか?」
「うん?」
聞かれた保憲は茜に杯を差し出しながら、けれど晴明を見る。
「選び難い二つの事柄の内から一つを選び出せ、と言われたら」
「―うん」
「あなたはどうお答えになるのですか」

聞かれた保憲はたったいま茜が満たした自分の杯をさっと干すと、ひとつ息をつく。
杯を膳に置いて、真正面から晴明を見た。
そして、
「どうだかなあ」
一言言って頭を掻く。
そんな保憲を見ながら、晴明もまた杯を傾けた。
保憲がろくに答えないからと言って、それについてどうこう言うつもりはまるでない。
ただ保憲を見ながらゆっくりと杯を傾ける。

「ならばおまえならどうする?」

問いながら保憲は、それまで肩に乗っていた黒い猫を膝の上に座らせ直した。
首の下を撫でてやりながら晴明を見る。

「私なら?」

聞き返した晴明に保憲がうなずいた。

「選び難い二つの事柄の内から一つを選び出せ、と言われたら晴明ならどうする?」
聞き返された晴明はふと笑うと、答えようと口を開きかける。
けれど、
「まあ、おまえは迷うまい」
それより先に保憲が言葉を放つ。
「…」
「迷わぬのがおまえだからな」
言われた晴明は保憲の言葉を聞きながらわずかに首を傾げて保憲を見る。
否定も肯定もしない視線だった。

「―ひとつを除いて」

その視線に逆らわず、晴明を見返した保憲の声が晴明に届く。
「……」
保憲の声の波長が少し変わった。
それに気づいた晴明が、青みがかった濃茶色の瞳でじっと保憲を見る。

「ひとつ?」

静かに聞き返した晴明に、保憲がわずかに笑って顎を引いた。
「そう。ひとつだ」
「どんなひとつでしょう?」
それでも表情を崩さない晴明に、深い笑みを含んだ保憲が言った。

「―どちらかを選べ。
想う男の心、想う男の命」

「―…」
ゆっくりと瞬きをした晴明が、保憲を見る。
「どちらかを選べばどちらかを失う。そう言われた時おまえならどちらを選ぶ?」
聞きながら、保憲は次第に笑みを納めていった。

「心を選べばその男の命はない。命を選べば、生きてはいるが心はどこか別の処へゆき、
おまえの事は永劫その男の中には無い」

「―……」
それでも黙ったままの晴明に真顔の保憲が続ける。
「おまえは想う男の、記憶に生きるか。空っぽの躯に生きるか」
「…」
問われた晴明が、酒に濡れた紅の唇に笑みを飾る。
目前の保憲をじっと見て、言った。

「いずれにしろ私は独りですね」

言われた保憲が首を振る。

「いや。いずれでもおまえは想う男と共にあるだろう?」

真剣な二つの眼差しの間に、心が行き交う。
目眩がしそうな程の空気の重さが二人の身を襲っていた。
―と。
「―」
その空気の加重を振り払うように、ふわりと、晴明が微笑った。
「簡単なことです」
伏し目がちの視線で保憲の黒い猫を見つめる。
黒い猫もまたじっ、と晴明を見ていた。

「私が消える」

言って、晴明はさらに微笑う。

「私がどちらを選んでも、男は理不尽の内に何かを失うことになる」

柔らかく、穏やかに笑った晴明が視線を上げて保憲を見た。

「ならば私が消えましょう。さすれば、私の想う男は心も命も失わない」

「…」
静かに言い切った晴明のその笑顔を見ながら、保憲が息をついた。
やれやれと頭を掻いて、晴明に言う。

「―やめた。この話、誰の得にもつながらん」
諦めて、吐き捨てるように言った保憲に、艶の溢れた笑みを含んだ晴明が言う。
「あなたが損をするだけです」
「…」
追い打ちを掛けるように放たれた晴明の言葉と表情に、保憲がため息をついた。

「おれが悪かった。帰る」

多少不機嫌そうに眉を下げた保憲はそう言って胡座を解くと、音もなく立ち上がった。
元来た道を帰ろうと濡れ縁に脱いであった沓を引っかけている保憲の背中に、晴明が
声を掛ける。

「保憲どの。なぜ急にそのようなお話をなさったのです?」

「―うん?」
片足だけに沓を履き、もう片方の足は裸足のまま庭に降りていた保憲が晴明を仰いだ。
一瞬晴明をじっと見て口を開く。

「坊主がそのような話を持ってきたというのは本当だ。まあ、話自体は大したこと
無いがな―…しかし」
言いながら保憲は一度空を見た後、もう一度晴明を見た。

「たまには苛めさせてくれよ」

からかうように言って、沓を履き終えた保憲が笑った。
保憲の瞳の端にわずかに滲む複雑な感情の色合いに気づかぬふりをした晴明もまた、優しく
笑う。

「じゃあな晴明。また来る」

そう言って後ろ手にひらりと手を振った保憲の背中に、
「いつでも」
わずかに艶をまとった言葉を届けた晴明が、ふと、何かに気づいたように保憲を見る。

「保憲どの」

「―?」
呼ばれた保憲が晴明を振り返る。
少しの距離をもって晴明を見た保憲の瞳に、晴明が映った。

「選び難い二つの事柄の内から一つを選び出せ、と言われたら。あなたのお答えを伺いたい」

凛と響く晴明の声に、保憲はにやりと笑う。
不敵なその笑みは、時折晴明が浮かべるそれと少し似ていた。

「両方手に入れるさ」

声だけを残して、保憲は出口を目指して踵を返すと、今度こそ本当に晴明の屋敷を後にした。

「―…」
消えて行く保憲の背中を見送りながら、晴明がほ、と息をつく。
―目前の空の色の変化に気づく。

瓶子に残っていた酒を手酌で注ぐとするりと飲み干した。


□□■□

―自分の屋敷への帰り道、腕の中の黒い小さな猫を撫でながら保憲は一人ごちた。
「馬鹿者が。おまえが消えたら博雅どのは全てを失うことになろうが」
言って、保憲は独りで観念したように自嘲気味に笑う。
「…それを知っていてああも簡単に己が消えると言うからな…。本当に馬鹿だな、あいつは」
歩きながらそう言った保憲の腕の中で、黒い猫がにゃあ、と鳴いた。
「…ん?」
その声を聞いた保憲は立ち止まると、腕の中の猫を見る。
猫は、じいっと保憲を見上げていた。
二股に別れた尾を少しだけ動かして、闇のように目まで黒い猫が無邪気な瞳で保憲を見ている。
「……」
そんな自分の猫を見た保憲がぼそりと言った。

「馬鹿はおれか」

はは、と笑った保憲の腕の中で、黒い猫がにゃあ、と鳴いた。


□□□■

「おるか、晴明―?」
保憲が帰った少し後。いつものように屋敷の出入り口から声が響いた。

「…」
その声が聞こえても、晴明は返事をしない。
ただ濡れ縁に静かに座したまま、庭に留めた視線も動かさなかった。

ややして茜に伴われた博雅が晴明の居る濡れ縁までやって来る。
「返事が無いからどうしたのかと思うたぞ、晴明」
言いながら博雅が晴明の隣にふわりと座した。
「もらい物だがな、良い酒が手に入ったのだ。おまえと飲もうと思って持ってきたよ」
言いながら博雅は茜に瓶子を手渡した。
と、その拍子に濡れ縁に目をやると、晴明のかたわらに二人分の酒の用意があり、その杯の
二つともが濡れている。

「うん?誰か先客があったのか」

言いながら博雅が晴明を見る。
「―晴明?」
いつもと違う雰囲気をまとう晴明を博雅が呼ぶ。
それまで晴明は庭を見たまま、一度も博雅を見ていない。
まるで博雅が来たことにも気づいていない風情である。
けれど晴明の式神である茜は確かに博雅を出迎えに行っているから、晴明も博雅の気配には
気づいているはずなのである。

「どうした?」
あてなく漂う晴明に、博雅が優しく声を掛ける。
日もずいぶんと暮れかけて、それでも一つの明かりも点していない晴明の屋敷には闇が来ようと
していた。
博雅は、すぐ隣にじっと座している晴明に触れようと指先を伸ばす。
「晴明」
名を呼んで、闇色に染まりかけた晴明の白頬に触れた。
「―」
指先を通して、博雅の体温が、晴明に流れ込む。

―瞬間。
「―博雅…」
名を呼んで、晴明は身体を返すと座した博雅の胸へ抱きついた。
「お、ぃ…晴明?」
不意に身を寄せてきた晴明を慌てて抱き留めながら、博雅は晴明を見下ろす。
潜り込むように博雅の足の上に座り、博雅の背に両腕を回してきゅう、と抱きつく晴明の
気と表情を感じ取った博雅が、そんな晴明を包むようにそっと抱く。
晴明に身を寄せると、頬に頬を合わせて、なだめるように言った。

「なにがあった?」
低く、優しく響く博雅の声に、晴明が小さく首を振る。
「何もなかった」
「うん?」
短く聞き返した博雅の頬に、自分の頬を押しつけながら晴明が言う。
「何もなかった。けれど心が、震えて―」
「―うん」
小さく言った晴明にうなずいて、博雅はあやすように晴明を少しゆすった。
博雅に揺られる晴明の、博雅を掴む両腕から余分な力みが抜けてゆく。
そんな晴明を感じながら、博雅が晴明を呼んだ。
「…なあ、晴明?」
「―うん」
呼ばれた晴明が、幾分落ち着いた声で答えるのを聞いた博雅は寄せていた頬を
少し離すと、その頬へそっと唇を寄せて言う。
「このままでいいか?」
博雅の唇を受けながら、晴明がうなずく。
「このままがいい。このままがいいんだ…」
繰り返された言葉を聞いた博雅がふと笑う。
「そうか」
短く返事をすると、博雅は晴明を抱いたまま月を見た。

明かりの点っていない屋敷の中で、朧に輝く夜の空色だけが、二人を照らす。
自分の腕の中で月色に染まる晴明を抱き寄せながら、博雅が言った。

「見ろ、晴明。月がとても綺麗だぞ」
「…」
言われた晴明は博雅に回していた腕を解いて、背後の月を見上げる。
足の上に座ったままの晴明の背や腿をよしよしとあやしながら、博雅が言った。

「あの月でこそ、おまえの心が震えると良いのだがな―」

「―…」
言われた晴明は振り仰いでいた月から視線を離して、博雅を見る。
晴明を抱く博雅は月ではなく、ずっと晴明を見ていた。

―不安に心震わせるのではなく。
―共に見る月の美しさに心震わせて欲しい。

「身体がいつも共にあることは出来ない」
―だから不安が晴明の心を震わせる時に、いつも共にあることは出来ない。
「けれど、心はいつだって、共にあるから」
―だから、そんな顔をするな。晴明。

「―ひろ」
「うん?」
博雅の言葉に隠れた心に触れた晴明は名を呼んで、ごく至近から博雅を見る。

―話さなければならないこと。
―話してはならないこと。
―全ては自分のためでなく、ただ、想う男一人のため―。

青みがかった濃茶色の瞳に映る自分の姿を見た博雅が答えると、晴明は少しの間
黙った後、静かに言った。

「何があったか話したい」

「―うん」

晴明の瞳に触れた博雅は、すぐ近くにあった晴明の頬を撫でるとそっと、唇に唇を寄せた。
本当に優しく、食むように柔らかい口付けを受けながら、晴明は瞳を閉じる。


―話さなければならないこと。
―話してはならないこと。
―全ては自分のためでなく、ただ、想う男一人のため―。


一つ息をついた後、晴明は真っ直ぐに博雅を見た。
凛とした鈴音色の声が、博雅に届く。


「先に言っておく。これから話す『想う男』とは博雅。おまえのことだ」



―全てはただ、想う男一人のため。



 

 

 

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