想ひ、摘め草
その晩訪ねてきた博雅が持っていたのは、瓶子でもなければ肴の入った手籠でもなかった。
「…めずらしいな、そんなものを土産に持ってくるとは」
出迎えた晴明は博雅の手にあるものを見ると、紅の唇に笑みを飾ってそう言った。
「まあ、土産というかな」
濡れ縁までの廊下をふたり並んで歩きながら、博雅は首の後ろを小さくかいた。 言いながら、
自分の手の中に あるものと晴明の顔を交互に見る。
「おれがいただいたのだよ」
言って博雅は濡れ縁の円座に腰を下ろす。 晴明を見た。
「おまえが―?」
博雅の一言に、晴明が不思議そうに声を上げた。
次に、
「ほう―…」
目を細めてひとつ唸ると、やんわりと微笑を含んだ。
博雅が小脇に抱えるものを見ながら、博雅の隣に腰を下ろす。
それ以上、何も言わなかった。
晴明の屋敷のいつもの濡れ縁で、ふたりはいつものようにのんびりと酒を酌み交わす。
季節は卯月の半ば。
陽光を含んで、それまでよりすこうしぬるめになった風が、近しくならんで座しているふたりの頬を、
同時にふんわりとなでながら吹き過ぎてゆく。
桜の終わった庭には、次の花―すみれが隆盛を誇っていた。
桜の時期には宙を漂っていた博雅の視線はすみれの藍色を追って、今は地に降りている。
柔らかな光の中で、博雅は地に群れて咲く藍色の花や、春の陽気に解けるのを待つ花のつぼみを、のんびりと眺めていた。
隣に座している晴明は、平和な空気を漂わせる博雅を眺め、時折自分と博雅の杯を満たしながら杯を傾けている。
「なあ博雅。それ、ちょっと見せてはもらえぬか」
注がれた酒を飲む博雅に、晴明が 声をかけた。
「うん?」
言われた博雅は、杯を干してうなずいた。
晴明を見る。
「ああ、もちろんだ。今日はこれを見てもらうために、おまえの元を訪ねたのだからな」
そう言って博雅は今まで自分の傍らに置いていたそれを晴明に手渡した。
博雅から晴明へ手渡されたもの―。
それは、一編の書物であった。
「ほう―?」
手渡されたそれを広げて見ながら、晴明が言う。
「これはいま宮中で流行っている読み物ではないか」
言いながら紅の唇の片方をゆっくりと持ち上げる。
「ある女が届かぬ思いに身を焦がし、思い切ること叶わず、しかし魔性にもなれず―、
と言う一途な恋をあらわした本であろう?」
「読んだことがあるか、晴明」
本の頁の一枚一枚をゆっくりと繰りながら斜め読みをした晴明がうなずいて口を開く。
「こんなものを、誰がおまえに?」
晴明の問いに、博雅はばつが悪そうに首の後ろをかいた。
「いや、それがなあ―」
わずかに言い淀んだ博雅の口調 に、書物に目を落としていた晴明がちらりと博雅を見る。
「―…どこぞの姫君からいただいたのだな?」
独特の視線と言葉運びに射抜かれた博雅は、反射的にうん、とうなずく。
すると。
ふ、と息を抜いた晴明が笑った。
「おまえを好いておるのだな、そのお方は」
春の気に、晴明の言葉がゆっくりと流れ出す。
「この恋の本をおまえに贈るとは ―」
晴明の言葉尻が、春の優しい風に紛れて―、消えた。
「―」
ふわりと漂う晴明の言葉に、博雅は晴明を見る。
―穏やかに。
優美で、どこにも乱れのない笑みを、晴明はたたえていた。
「―」
けれど。
それなのにどこか蜉蝣(かげろう)の儚さを併せ持つ晴明のその微笑みに、博雅は一瞬、心奪われる。
「晴明―」
言いかけた博雅を前に、ふ。とまた、晴明が息をつく。
「どこの姫君か知らぬが、博雅にこの物語を贈るなぞ、なかなかおまえをわかっておいでではないか」
―言葉を発した次の瞬間、晴明の淡い笑みは消えていた。
いつもの艶笑が、晴明を飾る。
「―」
一瞬見た晴明の儚すぎる表情を自身の見間違いかと思い返す博雅に、晴明が続ける。
「これくらいでないと、おまえにはようよう伝わらぬからな」
ますます艶のある笑みを含んだ。
「どういうことだ」
不思議そうに聞き返す博雅に、晴明は意味ありげな笑みを向ける。
「―遠回しに匂わす程度では、博雅さまには気付いていただけないと。お分かりなのだよ。その姫君は」
「は?」
晴明の言葉に、博雅は首を傾げる。
「掛詞などを使って歌を作り、それに思いを乗せて届けた所で、おまえはまるで気付かぬ
であろう?」
そう言って持っていた書物を閉じると膝に乗せ、その上に軽く手を乗せる。
「この話くらい具体的に恋を示しておまえに渡さねば思いは伝わらぬと、姫君はおまえのこの筋へのうとさを
わかっておいでなのだと、そう言うておるのだ」
「…」
晴明の言葉に、博雅は片方の眉を下げた。 唇を尖らせて、今にも何か言葉をこぼしそうである。
「まあ、よいさ」
そんな博雅が言葉を発する前に、 ふんわりと笑みを含む晴明が言った。
「しかしこの恋の話を姫君からいただいて、なぜおれの所へ持ってくるのだ?」
不思議そうに言って、博雅を見る。
「そのお方の所へ通うのか?」
言葉を紡ぎながら、真っ黒の瞳を真っ直ぐに見据える晴明の瞳が艶めいて揺れた。
「―い、いや、ちがうちがう」
晴明の言葉に、博雅は大仰に手と首を振って言った。
「もとよりその姫にはお断り申し上げるつもりだよ」
「―ふうん」
わずかに笑みを含みながら軽く返事をした晴明に、博雅がすかさず言う。
「おれにはおまえがおる」
「―」
真面目すぎる博雅の一言に、晴明は一瞬息を止める。
「おまえがおったら、他はよい」
そう言った博雅の言葉には、どんなものにもあるはずの裏が、無かった。
「―ふうん…」
博雅の言葉にふわりと笑んで、晴明は浅くあごを引く。
手にしていた書物をそっとなで た。
「でな、晴明」
ふいに博雅が晴明を呼んだ。
「うん?」
短く返事をした晴明を見ながら、 博雅が言う。
「その書物の真ん中より少し後ろの頁を開いてみてくれぬか」
「?」
博雅に言われた晴明は自身の膝に乗せていた書物を見る。
「―さては、それが今日これをここへ持ってきた本当の理由か」
うなずく博雅を前に、晴明は片手でぱらぱらと頁をめくる。
―と。
「うん?」
博雅の言うとおり、半分より少し多く頁を進んだ所で晴明が頁をめくる指を止めた。
書かれた文字を読んだ訳ではなく、頁の中心に目を留める 。
「―これか」
短く言った晴明がふんわりと笑みを含んだ。
笑んだまま、目を留めているものに指を伸ばす。
開いた頁を左手で押さえ、右手の人差し指と親指でそっとつまみ上げた。
「そこにそうして、その草がはさまっていたのだよ」
晴明の指につままれているものを見ながら、博雅が言う。
「―ほう…?」
博雅の言葉に、晴明は興をそそられたように艶やかな笑みを浮かべた。
「ずいぶんと洒落たことをなさる 姫がおいでとみえる―」
博雅の瞳を一瞬とらえ、次いで自分の指につままれている草に目を落とす。
ゆっくりと口を開いた。
「詰草、だな」
「つめくさ?」
晴明の言葉を繰り返しながら、博雅は晴明の指につままれた草を見る。
「茎が赤くないからな。これは白詰草だ」
「へえ、紅と白と双種類あるのか」
博雅の言葉にうなずきながら、晴明が続ける。
「ああ。花の色が赤と白の二種類あるのだ。元から大和にある花ではない。舶来品の緩衝として乾かした
この草を詰め物にして持ってこられたのだが、その種子が自然に大和にも根付いたのだ」
「あ、」
晴明の言葉に、博雅が思わず声を上げる。
「もしかして、だから詰草と?」
「―ああ」
博雅の言葉に、晴明がうなずく。
「しかし晴明。なぜその白詰草の葉がこの書物にはさまっているのだ?」
「うん―」
不思議そうな博雅に、晴明はふわりと微笑む。
「そうだな…。ではこれを見ろ、 博雅」
言って晴明は、白詰草をつまむ指を博雅の前に出して見せる。
「む?」
差し出された白くて長い晴明の指と、その指につままれた白詰草の葉を、博雅は素直に見つめた。
「葉は、何枚だ?」
「え。…何枚、って―。四枚だよ」
問われた博雅は、何を聞くのかと不思議そうに言う。
博雅の答えを聞いた晴明はうなずいた。
次いで、狩衣の裾をひるがえしてふわりと立ちあがる。
「む」
ふいに立ちあがった晴明を見上げた博雅がきょとりと瞳を動かした。
「どうした、晴明」
晴明は特にそれには答えず、座している博雅の腕を取る。
「博雅、おまえも来い」
そう言って博雅を立ちあがらせた。
「来い、ってどこへ?」
腕を取られて立ちあがらされた博雅は促されるまま、晴明についてゆく。
何の事やら分からぬままについてくる博雅の手を握り、晴明は裸足のまま、庭へ出た。
博雅もそれに続く。
「詰草はおれの庭にもある」
そう言って晴明は、庭の一画に博雅を連れ出していた。
ふわふわと淡い緑の下草が生えている所へ博雅を案内すると、そこへかがむ。
「これが本来の白詰草だ」
博雅を見上げて、下草をひとなでした晴明が言った。
「本来のって?」
言われた博雅が晴明の隣にかが む。
すぐ隣に同じようにかがんだ博雅に笑みを向けた晴明が、生えている白詰草の細い茎を一本折ってつまみ取る。
博雅の前に差し出した。
「博雅。葉は、何枚だ?」
「―?」
言われた博雅は晴明の指につままれている白詰草を見る。
「…」
晴明の指につままれた小さな草を目の前に、まばたきをひとつ。
その後 ほんの一瞬、何かを確認するようにななめ上を見上げ、いま一度目の前の草を見る。
次の瞬間、 あれ、と首の後ろをかいた。
「…三枚、か?」
「ああ」
博雅の言葉に、晴明がうなずく。
「本来、赤詰草にしろ白詰草にしろ、詰草の葉は三枚なのだ」
「…」
言われた博雅が、足下に無数に群れている詰草の葉を見つめた。
―確かにどの葉も、三枚である。
ざっと見たところ、四枚のものは生えていない。
「四枚の詰草の葉は、別に意味を持つ」
依然、足下の詰草に触れながら葉を見ていた博雅が晴明の言葉に視線を上げる。
「意味?」
聞き返した博雅に、晴明はうん、 とうなずく。
「どんな意味があるというのだ?」
問いを重ねた博雅に、晴明が柔らかく笑った。
かがんだ自分の膝に肘をついてほおづえをつく。
「陽炎、稲妻、水の月」
博雅を見つめて言うと、春風のように笑んだ。
「?」
首を傾げた博雅に、晴明が続ける。
「捕らえたいのに捕らえられない、身軽で儚いもののたとえだ。なかなか出でることのない四つ葉の詰草にも、
似たような意味がある」
「ほう」
陽気と同じくらい柔らかな晴明の笑みに見惚れながら、博雅が返事をする。
「その珍しさから、持っていると得がたい幸福、稀少な幸運を手にすることが出来ると言われている」
「―」
言った晴明の表情が、春の陽光にふわりと滲んだ。
自分の指先につままれている四つ葉に目を落とす。
「本当に珍しいものなのだ。これだけ生えていても、四つ葉はそうは見つからぬ」
かがんだまま、群れて生える詰草を少しかき分けた。
「おまえに贈るために、姫はさぞ 難儀されたことであろうよ―」
柔らかい緑は、晴明の白い指を包み込むように風に揺れている。
春の陽の光が、晴明の白い頬に淡い影を作っていた。
「…」
赤子の髪に触れるように、 優しく詰草の葉に指を滑らせる晴明の姿に、前触れもなく博雅の真ん中が熱くなる。
のどかで暖かな陽気と、晴明の中身の温度にほんのわずかな隔たりを感じた。
それは、博雅にしか感ずることの出来ない温度差で―。
「…」
そんな晴明を前に博雅は、次の瞬間。
何も考えることなく、詰草の群をなでる晴明のその手を取っていた。
きゅう、と優しく握る。
「博雅?」
ふいに感じた博雅の暖かさに、晴明が詰草に落としていた視線を上げた。
青みがかった濃茶色の瞳が、少し潤んだ真っ黒の瞳と至近でぶつかる。
「―姫には悪いがおれには、四つ葉の詰草は初めから不要だ」
春が、ふたりの頬をなでる。
「これ以上の『得がたい幸福、稀少な幸運』など、おれにはないからな」
「―」
そう言って博雅は空いている方の手の指先で、晴明の唇にそっと触れた。
緩い苦笑を交えて、博雅が言う。
「幸福は、手を伸ばせばすぐここにあるのだ―」
言い終わらぬうちに、博雅は取っていた晴明の手を引き寄せる。
晴明の唇に、そっと唇を重ねた。
吹きすぎる、暖かい春風と同じくらいの優しさと、大らかさをもって。
「―…」
晴明を、碧い薫りが取り巻く。
―春は、時折身の内に生まれる目に見えないものをも融かしてくれるのだと。
柔らかな感触は、例えようもなく安らかで―甘い。
「すまなかったな、晴明…」
ほんのすこし離れた唇の間から、博雅が言った。
「……なにが?」
春そのもののような微笑みをたたえた晴明が小さく言った。
緩やかに笑むと、博雅の頬に頬を寄せる。
風がそうするように、博雅の頬を柔和になでた。
両腕を博雅の首に絡めて、互いの身体の距離を縮める。
「―いや」
短く言った博雅はひとつ微笑むと、晴明の腰を狩衣の上からそっと引き寄せる。
離れてしまった唇をもう一度、重ねた。
―するりと落ちて。
得がたい幸福、稀少な幸運はいつでもここに。
晴明の指先から解き放たれた象徴が、平穏の群れの中へと還ってゆく。
得がたい幸福、稀少な幸運はいつでもここに。
―いつまでもここに。